◆日常でよく耳にする「大丈夫」という言葉について
「大丈夫」という言葉は不思議なもので、様々な意味を持ち合わせています。特に現代では必要または不要、可または不可、諾または否の両方の意味で使うことが増えてきました。万能で使いやすいので、日常で多用されている言葉の一つと言えるでしょう。
「大丈夫」は時におまじないのように使われます。例えば発表前に緊張している場面で呟く「大丈夫」という言葉には、自分を鼓舞する意味合いがあったり、大丈夫なのだと心の中で再確認したい気持ちがあるかもしれません。また、別の場面では「大丈夫?」という相手を気遣う問いかけに対して、心配をかけまいと「大丈夫!」と返すやりとりも日常でよく見かけます。もちろん、これらの「大丈夫」という言葉には実際に大丈夫だという認識でいる場合もあると思いますが、本当は大丈夫じゃない、しんどい気持ちが潜んでいることもあるかもしれません。ですが、例えネガティブな感情があったとしても、自分の心の状態を自覚しないまま、自動応答のように「大丈夫」と答えることも多いのではないでしょうか。
今回はネガティブな感情があったときに、実際の感情とは異なる感情を言葉にすると、身体の中でどのようなことが生じるか考えていきたいと思います。
◆感情のラベリング
まず、感情を言葉で表すことについて説明します。今、ここにある自分の感情を言葉にして表すことを心理学では『感情のラベリング(または情動のラベリング)』と呼びます。感情のラベリングは、ネガティブな感情によってストレスを感じているときに役に立ちます。
感情を司る脳の扁桃体という部位は恐怖や不安によって活性化し、ストレス物質であるコルチゾールを分泌させてストレスを感じるようになります。ストレスを感じることは、危険を察知して身を守る上では大事な働きではあるのですが、働きが過剰になってしまうと他の脳機能の働きが弱まり、記憶力や思考力が低下したり、感情のコントロールが難しくなります。ここで、感情のラベリングが力を発揮します。ストレスを感じたときに生じる感情を言葉にして表そうとすると、頭の中で「どんな感情だろう」と考える時間が生じます。考えるという過程が加わることで脳の前頭前野という部位が刺激され、扁桃体の働きにストップをかけることが明らかになっています。
◆正しく感情を認識しないとどうなるの?
それでは、正しく感情のラベリングをせずに実際の感情を認識するのを避けたり、異なる感情で認識しようとするとどうなるのでしょうか?
感情のラベリングに関する興味深い研究を紹介します。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の3人の心理学者は、蜘蛛を怖がる人達に対して、蜘蛛との距離を段階的に近づけて克服するプログラムを実施しました。プログラムには3つのグループに分けて、介入を行いました。1つ目のグループは『楽観的思考』で、「皆さんの前にいるこの蜘蛛は、小さいし無害です」などポジティブなものとして説明しました。2つ目のグループは『経験の回避』で、「ところで、最後にデンタルフロスを使ったのはいつでしたか?」などの質問で関心を逸らせました。そして、3つ目のグループは『情動のラベリング』で、今感じている気持ちを認識してラベリングするように指導しました。
その結果、『楽観的思考』や『経験の回避』を使って蜘蛛に対する恐怖心に打ち勝つように人々を訓練すると、前よりも悪い状態になってしまうことが分かりました。一方、情動のラベリングをするように訓練された人達は、長期的に見て最も大きな効果があり、情動のラベリングによって蜘蛛に対処する能力がさらに高まることが分かりました。
つまり、ネガティブな感情をポジティブな感情に置き換えたり関心を逸らそうとすると、返ってネガティブな感情が高まるという結果になったのです。一方で、ネガティブな感情を受け入れて言葉で表現した方が長期的にはネガティブな感情が減っていくということが明らかになり、いかにネガティブな感情を正しく認識できるのが大事かということをこの研究結果は示しています。
◆子どもの場合
幼い子どもの場合は、まだ自分の感情を即座に認識して言語化できないこともあるので、大人が代わりに言語化してあげる必要があります。このときに、大人側が正しい感情を言語化してあげることが大切ですが、日常で実践するとなると意外に難しくもあります。
例えば転んだときに子どもが固まっている場面を想像してみてください。近くにいた大人が「大丈夫!」と手を貸して、子どもは何事もなかったかのように立ち上がったとします。このような光景はよく見ると思われますが、このとき子どもの身体の中では何が起こっているのでしょうか? 子どもは転んだ瞬間の痛いという状況に対して、自分がどういう感情を持つのかまだ整理ができていない状態にあるため、最初は固まります。その間、本来持つ「嫌だ」という感情の情報が送られる前に大人が「大丈夫」と先にラベリングをすると、大丈夫な状態だと認識をされて、何事もなかったように振る舞うことができるのです。このようにネガティブな感情を正しく認識されないことが習慣化されると、我慢強いと認識されることが多いのですが、否定された嫌な気持ちが心に残ったまま大きくなって、ふとしたときに怒りのエネルギーとして暴走するようになります。怒りが蓄積しないためには、先程の例だと大人が「痛かったね」「怖かったね」とネガティブな感情を代わりに代弁して、その都度子どもが安心して泣いたりネガティブな感情を吐き出せることで、ネガティブな感情が消化できるようになります。
◆その「大丈夫」は大丈夫?
冒頭の自動応答のように「大丈夫」と答える話に戻ります。自分の心の状態に耳を傾けることなく「大丈夫」と言葉にすると、頭の中では「そうか、大丈夫なのね」と認識して、言葉と感情にズレがないように、大丈夫な自分を作り上げていくでしょう。最初のうちは大丈夫な自分でいられるように頑張れる力につながることもあると思います。しかし、長らく自分の心の状態を正しく認識しないままでいると、扁桃体が暴走してストレスが長引く場合があります。ネガティブな感情が存在することは悪いことではありません。どのような感情であっても、あなた自身の大切な一部です。自分の感情に気づいて、きちんと言葉にして受け入れることは、自分の感情を大切にするということなのです。
カウンセリングでは自分の言葉で語っていただくので、今、ここにある自分自身の気持ちを言語化する機会になります。私はカウンセリングがありのままの感情を話せる場所であってほしいと願っています。それでも、社会の中で「こんなことを言って大丈夫かな」と迷ったり、伝えたい気持ちを呑み込むうちに、自分自身の感情に耳を傾けなくなって、分からなくなることがあるかもしれません。そういった混乱や不安も含めて、どうぞカウンセラーにお話しください。いつも「大丈夫」でいる必要はないのですから。
引用・参考文献
ロバート ビスワス=ディーナー; トッド カシュダン『ネガティブな感情が成功を呼ぶ』 草思社 2015
大河原 美以『「心の怪我」が感情コントロールを困難にさせる』月刊学校教育相談 / 学校教育相談研究所 編 2012
北村昌陽『感情はどこから?実は生存をかけて脳が下した判断』 NIKKEI STYLEアーカイブ 2014