私たちは想像します。実際に現実でできないような事でも、どんなに荒唐無稽な事であっても、こころの中だけで扱う事ができ、ある事柄と別の事柄を関連させたり物語を作る働きがあります。人は想像を基に実際に道具を作り技術を発展させてきました。小説や映画、ゲームも想像の産物です。想像は創造の源です(駄洒落です)。一方で、こころの問題や悩みが生じる時にも、想像が大きく関わっているのではないでしょうか。想像できるからこそ楽しい事も考えられるし、不安にもなるのではないでしょうか。
そんな想像の働きの中でも今回はこころと身体の取入れと排出を軸に触れてみたいと思います。人の想像は多様なので今回述べる以外の想像も当然生じますが、今回は話をわかりやすくするために絞ります。ちなみに北山修氏の著書「心の消化と排出」を参考にしています。関心がおありの方はご一読下さい。
まずは身体について。私たちは食べ物を食べ消化し排泄しますが、そこから汚らしさや恥の感覚を想像しやすいといえます。吐く事や排泄については分かりやすいですね。食べる事については、食事マナーと呼ばれるしきたりをわざわざ設ける例があるように、一つには体内に物を取入れるという行為が欲の表れであり、欲は汚らわしさ、そして恥の感覚を伴いやすいからかもしれません。通常、下品という言い方をしますが、いわば見にくい(醜い)事と想像しているからなのでしょう。実際、口元を隠したり、音を立てないマナーがあるのは、いかにも体内に取入れるその瞬間の事実を知られたくないからと思えます。また、自分が動物である事を受け入れにくいからとも想像できます。あるいは、後でも触れますが内と外を分け隔てているからこそ、その境界は汚らしい部分と想像しているのかもしれません。
体内は私たちの大切な中身です。と同時に見たくない、出てきて欲しくないものでしょう。中身は普段意識しませんが、混とんとしていて、汚らしいもの、その消化と吸収、いらないものの排出が実はつながっているわけで、やはり見にくいと感じやすいのではないでしょうか。
この事は何も消化器官に限った話ではないでしょう。排出は分かりやすいですが、性的な事、生理現象は最たる例でしょう。涙や汗、垢、出血、息。それから体毛も身体から抜け落ちたとたんに汚いものに感じるといった経験をされた事はないでしょうか?
また、見る行為は外の情報を視覚的に自分の中に取入れています。と同時に、まなざしを向けた対象に対しては自分の何かしらのこころを排出した(知られた)とも想像するでしょう。他にも聞いたり触れたり嗅いだりする事でも主に刺激の取入れにまつわる想像が起きているかもしれません。例えば人の視線が気になる方、自分が他者からくさいと思われている気がしてならない方、感覚過敏で苦しんでおられる方などの中には、感覚情報とこころの間で不安を想像させる結びつきがなされている場合があると思われます。
既に、こころの問題に触れていますが、人と人との関係性にも取入れと排出の感覚は当てはまる(想像できる)と思われます。だからこそ汚らしさなどを感じ、思い悩んでしまう側面が私たちにはあるのではないかと思います。例えば、他者と一緒にいて自分が何かしら話をしたり表現したり行動する事がためらわれる時があるのは自分が排出したものは相手にとって汚らしいもの、受け入れてもらえないものに思えるからという想像が成り立ちます。実は排出元である自分自身が汚らしさを内包した存在、いえ、恥ずかしい存在、自信の持てない存在、受け入れてもらえない存在という想像から生じているという言い方もできるかと思います。
逆に他者からの意見になんだか素直には応じたくない時にYESと表出するのを恥ずかしく思う感覚も、それが汚らしさとは言い切れないまでも、取入れる事を相手に知られる抵抗感として考えられるかもしれません。食べている口元を見られたくない気持ちにどこか似通っている気もします。
人という一つの個体は完全に外界と遮断されているわけではありません。身体には内側と外側の境があいまいな器官があります。境はどれも汚さや恥ずかしさを想起させやすい部分ばかりです。私たちは密閉された1つの個体ではなく外界に開かれた存在でもあります。絶えず外界とつながり物や情報あるいはこころが出入りしています。外界と程よくつながりながら、自分という存在を外界から守り維持しています。私たちはそのような微妙なバランスの上に成り立っています。
こころのバランスがとても崩れていると、外界の刺激は攻撃的であり脅威と感じられ、殻を固く閉じた世界となるかもしれません。あるいは、自分が他者から拒絶される気がしていれば、やはり閉じた世界になるかもしれません。また、重篤な精神疾患では自他の境界があいまいとなり心の安定は保たれなくなり、激しい混乱状態になると考えられます。
そこまで深刻でなくとも、誰でも嫌な事があると、こころが不快になりますよね。そんな時、汚い言葉にのせて、その不快感を排出したくなるのは、こころの中に生じた汚らしさを外に出してスッキリさせたいからでしょう。だから、それは汚い表現でしか出しようがないのであり、一時的にでも浄化作用があるのでしょう。また、その時もできるだけ他の人に見せないように気をつけている事が多いでしょう。ところが、こころの場合、もし私たちの中に生じた汚らしさ、不快感を聞いてくれる人がいるならば、一時的な浄化にとどまらず、取入れと排出の仕方の見直し、こころのバランスを組み立てなおしの機会になるかもしれません。
最後に、2020年頃から始まったコロナウイルスの世界的な流行は年単位で私たちの生活を大きく変化させました。これらの変化が一時的で済むのか分かりませんが、とりわけ発達の最中にいる子供たちの心身への影響は長期的に気にかける必要があるでしょう。コロナウイルスという具体的な物質の影響とはいえ、この現象もご多分に漏れず、取入れと排出の対象となったようです。対象は本来ウイルスなはずですが、小さすぎて人の目には具体性を欠き、人の呼吸が媒介するとの情報をもとに、対象はウイルスなのか人なのか、自分なのか他者なのか非常にあいまいになりました。抽象的、観念的な存在ともなりえるので、余計に想像が働きやすくなったのではないでしょうか。ワクチンも同様の対象となったと思います。国や地域で、あるいは一人ひとりでコロナウイルスやワクチンへの反応はずいぶん違うように思われ、取入れと排出に関する想像という枠組みで考えてみると国民性や個人の特性が反映されていると思います。